何の話

『死んだらAIになって働きたい? 働きたくない? 死後デジタル労働「D.E.A.D」なんてのがあります 』という記事が上がっていた。昨年末の紅白歌合戦での美空ひばりなど、死者のデータを使った再構成についてどう思うか、と言う研究のよう。記事を引用すると下記の通り。

AIでよみがえる美空ひばり、今はなき名ピアニストの演奏、死んだ娘とVRで再会、二松学舎大学の漱石ドロイド…。近年、死後もその人の性格や能力をデジタル化して運用する試みが増えてきました。

こうした流れを「D.E.A.D(Digital Employment After Death = 死後デジタル労働)」と呼称し、改めて向き合おうとする動きがあります。

フワッと連想したもの

 TBSラジオの『Life』で昔(2010頃)に「情報社会のギリギリライン」というテーマでやってた時、「死後もbot化して漂う津田大介」みたいな話があったと思うんだけど、あれを思い出した。それと私の好きな小説家、伊藤計劃の『屍者の帝国』。

情報社会のギリギリラインは震災前の番組なので今聴くとちょっと「未来は明るい」的な楽観的なムードが漂っている

屍者の帝国は構想が伊藤計劃で死後友人の円城塔が完成させた小説。

記事自体の感想

 私は人は死んで消えるから人なのであって不老不死とか悪夢だと思うタイプの人間なので、美空ひばりとか死んだ人までキャラクターとして消費する姿は醜悪に思えた。「どう言う人間だったかのテキスト的記録」「生前の映像/音声の再生」までは別にいいのだが「今そこにある」ように提示することにはとても不快感を感じる。この辺りは人によるのかもしれないとは思いつつ、前述の通り「人は死ぬからこそ素晴らしい」と言うような考え方をしている私には嫌な記事だった。

 メモ代わりに書いておくが、嫌な理由は「死者は死んだままにするべき」の他に「特に美空ひばりのやつは、死んだ人をキャラとして蘇らせ、さらに消費していく様は、墓を暴いて見世物にしているような、醜悪なものに感じられた」とか「終わったコンテンツを懐かしさに負けて蘇らすとか後ろ向きすぎるんじゃないか」とか「そもそも死ぬ前に許可もしてないんじゃないの」とかそういうもの。